2026年03月31日

<ハルメク エッセー講座作品集>「42,195キロ」大井洋子さん


随筆家の山本ふみこさんを講師に迎えて開催するハルメクの通信制エッセー講座。ハルメクeventsでは、参加者が提出した作品の中から山本さんが選んだ「みなさんに読んでもらいたい作品」を公開しています。
第11期3回目のテーマは「無題(ご自由に書いてくださいまし)」。大井洋子さんの作品「42,195キロ」と山本さんの講評です。


42,195キロ

「マラソン完走者だけに贈られたシャツを、見てもらいたかったんです」
と、濃いピンクのTシャツを着たヒマワリさんは、手を振りながらやって来ました。


定年退職後、彼女は東京オリンピックやマラソン大会などのスポーツイベントにボランティアスタッフとして参加。また、長い間テニスや水泳をしているから、自身もフルマラソンを走ってみたいと思ったそうです。


昨年12月のホノルルマラソン大会当日、早朝5時のスタート時は雨でカッパを着用、そのあと曇り空になったけれども、もの凄い蒸し暑さのなか、空腹になるとリュックから羊羹を取り出してかじりながら、走ったり歩いたりして午後1時過ぎにゴール。
スニーカーの中に入り込んだ雨水で足がふやけ、できた豆が潰れて傷になっていたことを終了後に知ったと、事も無げに話してくれました。
過酷な気象条件のなか、42,195キロ先の目的地にむかって8時間以上も前へ前へと進み続けて「完走」した彼女。
途中でやめようとすれば、そうできたのに、心が揺れた瞬間はなかったのでしょうか。


両手をあげてゴールした写真を、見せてくれました。
心が行き届くことを言わなければと思うのに、すぐに言葉が出ません。
胸を張って語れることがわたしにあるのかと、一瞬自身に意識が向いてしまいました。壁に当たるとすぐにやめてしまう性格で、何か一つを貫いたことがなかったからです。


「辛くても諦めずに走り抜いた気力が素晴らしいですね。感動しました」
と、讃えると、
「エントリーしたら、完走するのは当然のことだと思っていたんですよ」
彼女は少し驚いた顔で答えました。
そもそも最初から、ヒマワリさんには途中で棄権するという選択肢はなかったのです。


考えてみると、途中で投げ出さなかったことが、わたしにもありました。
知る人がいない所で、一人での子育て。転居ばかりの不安定な暮らしの中でも、自分なりの目標と楽しみを見出し、家庭を続けたこと。そして今も、見えないゴールテープのある42,195キロ先へ向かって走り続けているのかもしれません。


山本ふみこさんからひとこと

ヒマワリさんのこの台詞。
「マラソン完走者だけに贈られたシャツを、見てもらいたかったんです」

洋子さんの……この胸のうちの呟き。
心が行き届くことを言わなければと思うのに、すぐに言葉が出ません。

皆さんも、どうか、考えてみてくださいまし。
なんでもないように見えて、決してなんでもなくない台詞や、場面を。


通信制 山本ふみこさんのエッセー講座とは

全国どこでも、自宅でエッセーの書き方を学べる通信制エッセー講座。参加者は講座の受講期間の半年間、毎月1回出されるテーマについて書き、講師で随筆家の山本ふみこさんから添削やアドバイスを受けられます。