2026年10月31日
随筆家の山本ふみこさんを講師に迎えて開催するハルメクの通信制エッセー講座。ハルメクeventsでは、第12期にご参加のみなさんが提出した作品の中から山本さんが選んだ「みなさんに読んでもらいたい作品」を公開しています。
第12期4回目のテーマは「パン」。クメハルさんの作品「焼く前 焼いた後」と山本さんの講評です。
食卓には食パンの入った袋が鎮座していた。
小さなアパートに4人家族。両親は共働き。父は家に居らず、母が看護師で、シフト勤務。鍵っ子の小学1年生だった私。家の鍵は、毛糸の紐で首からぶら下げていた。
学校から帰ると、遅い夕飯まで食パンを食べてしのぐ訳で、1枚取って、トースターで焼いた。トースターのタイマーの音が「ジジジ」と、誰もいない家の中に響き、寂しさを紛らわせてくれた。
ランドセルを部屋に置いて戻ると、「チーン」と出来上がりの合図。焼けた食パンを、ヤケドしないよう、そうっと爪と爪で挟んで皿に移す。背伸びして、冷蔵庫の奥からバターの入った厚いガラスの容器を引き出す。中の大きなバターを、かまぼこ板の倍くらいの厚さに贅沢に切り取る。独りなので、「多い」と家族に怒られることもない。熱々のパンに乗せる。乗せられた彼は、接した面の下からゆっくりと溶け、黄色から白色に変わる。しだいに泡立ち、泡は横に広がりながら、小さなくぼみを埋めていく。その様子を、テーブルに頭を載せて観察する。
そんなある日、思いついた。
いつもは、焼いてからバターを乗せていたが、今日は焼く前に乗せてみよう。乗せてから焼けば、彼は下からではなく、上から溶けるのでは。テレビのコマーシャルでは、四角く厚い彼が、上から溶けて美味しそうにパンの表面を覆っているではないか。
結果は。
溶け落ちたバターが電熱に触れ、火が出た。トースターの透明な窓はススで黒くなり、煙もすごい。その奥にロウソクの火のようなオレンジ色がゆらゆらと見える。慌てて開けて、割り箸でこすり消す。大失敗。火事にならなくてよかった。
この後の記憶はありません。ただ、1人の時、トースターは使用禁止になりました。食パンは焼けなくなり、冷たい食パンを食べる日が続いたのです。冷たい食パンが、独りの寂しさの思い出となったのです。
食パンの香りは、焼く前と後で印象が変わるように感じます。焼く前の印象は、鼻から頭に向かって、一直線に矢を射る、人に積極的に受け入れ準備を促すような、食パンの気合です。焼いた後は、「はい、朝ですよ」といった挨拶です。
私の小学1年生の思い出のほとんどは、焼く前の食パンの香りが占めています。何十年経っても、食パンの焼く前の香りと気合は、私の中に棲みついているような。でも、あの出来事から、ずうっと、その香りと気合は好きではない、と言いますか、苦手です。
あちらにこちらに、ため息の漏れるような表現と出合いました。たとえば——。
家の鍵は、毛糸の紐で首からぶら下げていた。
トースターの音が「ジジジ」と、誰もいない家の中に響き、寂しさを紛らせてくれた。
乗せられた彼は、接した面の下からゆっくりと溶け、黄色から白色に変わる。しだいに泡立ち、泡は横に広がりながら、小さなくぼみを埋めていく。その様子を、テーブルに頭を載せて観察する。
胸に生じるものを、書き手の観察であらわすことに成功しています。つい「うれしい・かなしい」「しあわせ」「辛い」「感動」などということばに任せきりにしてしまいがちなところを、観察+スケッチを経て表現する……。
はっとさせられています。
全国どこでも、自宅でエッセーの書き方を学べる通信制エッセー講座。参加者は講座の受講期間の半年間、毎月1回出されるテーマについて書き、講師で随筆家の山本ふみこさんから添削やアドバイスを受けられます。